文体に優しくされたいよね

前の記事でいったアンケートに答えてもらって、ほくほくして、その話をしようと思ってたんですけど、昨日友人に「 年々読みにくい文章読めなくなってきちゃって、特に男性っぽい文章は繋がりが悪くて最後まで読めない」って言われて、あーーーーーめちゃくちゃわかるな、と思ったんです。そんでこれ、みんなにハァ?っていう顔されるから言わないようにしてたことだなあって思って。このブログ、そういう言わないようにしてる私の基本思考みたいなものを掘り下げていきたい感じなので、じゃあ今日はこの話をしようかな、と思います。

 
 
「 年々読みにくい文章読めなくなってきちゃって、特に男性っぽい文章は繋がりが悪くて最後まで読めない」っていうの、わたしすごく共感したし、ほんとそうだよね、って思ったんですけど、世俗的な共感はどうなんでしょうね。世俗的な、というか。わたしの小説をよむ、いや、わたしの文体の小説を好む人たちはこういう感覚を持っているのではないだろうか、という期待をおそらく私はしちゃってるんですけど、今。
「 物語がどうこう、じゃなくて、そもそもの文体に優しくされたいし、文体が優しくなかったら、ああもういいや、って思う」
「 かしこいでしょ、とか、すごいでしょ、とか、どうこれおもしろいだろ、とか、真偽はともかくとして、そんな風に偉そうにされるために私は本を開くわけじゃない」
「 ちゃんと読めばわかる、とかじゃなくって、だって、ちゃんと読まなければ分からないぐらいにきちんと読む気のある読者相手にしか話をかかないひとの話を、それ以外を切り捨ててしまうような人のはなしを、読みたいとは思わない」
「ちょっとでもつめたくされると、あーーー試されてるなあっておもうし、面白いお話を読むときにそれを楽しむ資格があるか試されるの、興ざめじゃん」
「男の人はそういう優しくない文章をかくから嫌。優しくてやわらかい、女のひとのかく文章がすき」
 
このあたりのことを私が言った時、このブログを読むような人たちは、あーーーわかる、っておもうのかなあ。これでわかるんならこの通りだし、これでわかんないんなら、今から私がなにを述べてもわかんないのかもしれないなあと思う。感性の違いって結局埋まらないんだ。私が私の読書家である友達にこういうことを言った時、みんな、なにをいってるの?って顔をするから。
海外作家をよまないってゆわれたぐらいイミワカンナイな、それ、っていわれて、あーーーそういうのと同じだって思うんならほんとにわかんないんだろうな、って私も思ったし、それは少なからずショックだった。
でもたぶん、これはすごく感覚的な話で、わたしの読書家な友人はみんな読書家で、読書家というひとたちは大抵いろんなものを読むからわからないだろうなあっておもった。この、読書家のひとたちはそういうのにこだわらずにいろんな本を読む、っていうのも紛れもなく偏見で、この偏見はもう訂正されなくて、だから、そういうことなんだろう。偏見も感性も、この年になっちゃうと凝り固まっちゃってる、みんな。
 
男とか女とか、海外とか日本とか、そういう偏見で何かを嫌うのはもったいないよ、って。おもしろいよ、って。全くもって正論(正論であることが良いこと、ってわけではないんだけど間違いなく正しいアドバイスなのだと言われた時おもった)で、私もおもしろいものは面白く読みたいなと時たま思って、あとわたしは物書きであるので、小説をよまない人間であることをたまに反省するからそういうのもあって、本を読もう、としてみるのだけど、男の人の文章ってよめないなーー!!!!ってことに毎回ぶち当たる。読めない。あと、小説を書く側の人間であるくせに、活字をよむスキルが著しく低い。そして飽き性。これが本当にダメで、文章を読み続ける、ってことが全然できない。そしてそれを実感したくないから活字をさらに読まない。負の連鎖だ~~~!!
 
 
だからまず、最後まで読めるってことは絶対にない。途中で飽きる。文章書いてる時も飽きるけど、なんとただ読んでるだけ時も飽きる。もしくは疲れる。これ、たぶん呆れられるだろうと思って言わなかったから初めて言うなあ。それでその、飽きるとか疲れるとか電車を降りたとかなんらかの理由で読むのを止めて、もう一回続きから読み始めるのに、その読んでいたものへの印象がマイナスではない必要があるのだ、私の場合。文章がやさしくないとか、おもしろいと思えるところがひとつもないとか、文章がひっかかるとか、そういうの全部マイナスになってしまうし、そうするともう再び開けない。
でもこういうのは収支で、プラスが働いてなんやかんやした結果ゼロ以上になればいいんだ。だからこそ、文章のおもしろさとかって、そのまま強さになる。文章のかたさもひどさもなにもかも、圧倒的な面白さの前にはなんのひっかかりにもならない。萌えもそう。推しカプである、っていうのは多大なるプラス補正になる。萌えシチュ、とかも。だから二次創作はザクザク読めるんだろうなあ。好きなキャラの話であるって前提としてかなり大きいプラスの付加だもん。書いてる人も大体女性で、女性的な文体だし。長いやつも読むし、短いやつももちろん読む。
 
あと二次創作って、なんでもいいんだよね。ピクシブとかほんとに手軽で、文字でさえあれば小説というカテゴリで投稿できて、すごく身近で気楽で気負わない。形式ばらないのも、身構えさせなくていいよね。なんかツイッターで、二次創作で小説にもなっていないものがあまりにも多すぎる、状況描写もまともにできてない、キャラがどこにいるのかもわからないものは小説ではない、っていうのをみて、ああ、っておもったの。
だからそういう、こういう方々が小説って呼ぶものにするためにいれる状況描写とかいう萌えに関係のない説明を、すべてすっとばせる。これって、二次創作の強みじゃないかな、とわたしはおもうの。居場所も服も状況も、萌えの土台なら描写すればいいし、萌えに関係ないなら書かなくたって良くて、そういうこまごました約束を破っても、カプ小説というものは成立する。自分の萌えに正直であれば、言葉が打てれば、どういう形でだってそれなりに萌える小説は書けるということ、いいよな~~~っておもう。まあ数かいてりゃいろんな作法は勝手に身につくしね。小説をかく・完成させる・よんでもらうっていうことの楽しさを、容易く摂取できるのは楽しい。そういう楽しさを積み重ねて構築された小説(だからつまり、楽しいとかもえるとかがひしひしとつたわってくる小説)って、よんでて気持ちいい。まあ~~~~~私だって文体の好き嫌いはあって~~~意味のわからん小文字とかにちゃんパロディ流用小説とかは全然すきじゃないしああいうことがぴくしぶに萬栄するのは気軽さからなんだろうとおもうし~~~~~ああいうのが増えるのは全然よろこばしくないけどね~~~~~~~~~~
 
 
 
脱線した感じがするなあ。話をもどしたい。飽き性なんだよな。だから自分でかくのも3000字くらいがいい。丁度良く読める。
 
 それで、男の人の文章はやさしくないからヤダ、とは?っていう話なんだけど。
昨日友人とそういう話をしていて、「男のひとっぽく文章のつながりがわるいとダメ」「感情の流れを大事にしたいから、そういう流れにのせてほしい」「説明ほしいところはほしいけど、いらないところはいらない」「論文を読んでる気分になったりする」
とかいろいろ。
やさしくない、っていうのはつまり、なんなんだろうなあ、って考えてたんだけど、やっぱりその通りじゃない?って思う。読んでる相手にやさしくよみやすくしよう、って思ってないなってかんじ。もしくは、対象にはいってない。まあ、そうだよねえとは思う。そんなに限定してられないよね、商業なら。わたし、女の人の文章しか読めないみたいなことゆったんだけど、子供向けのやつはよめるんだよね。いや、ちがうか。正しく言うと、子供向けに子供にやさしくした小説しか読めなくて、そのまま脳がかわってなくて、付加で、女の人の小説もよめるようになった、っていう感じ。
 てゆ~~~~~~~かさああ!!!明日って祝日なんじゃん!?!?!?世界は休んでるの自分だけ違うってことほど腹立つことねえよなァ~~~~~~????まじもうブログとかかいてる場合じゃなくない!?!??!?!わたしはやすみじゃない!!!!!!!!!!!!!!!!!もう一時じゃん許されない!!!!!!!!!!!!!!!わたしは寝る!!!!!!!もう一回興がのればこの話をちゃんとまとめるからその時はよろしくな!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!