同人小説を書いている

同人小説を書く人で、書いたらかけちゃった!日本語が書けば小説もかける!っていうひともいるけどそんなわけないよ、というブログを読んだんですよ、今日。私は小説を書く上で一定のラインは越えなければならないと思ったし、それには勉強が必要だと思った、という感じで、その方がした努力の仕方が書いてあって、すごく、真面目で真摯だなあっておもったんですよね。同時に、やはり勉強はしなきゃいけないのだと思った。私は、かいたらかけちゃったっていうか、ううん、そうですね、かいたらかけるのが小説だけだったので小説をかいていたら自我が自分を小説かきだと思い出したので物書きになった、という人種なんですよね。

いやでも、かいたらかけるわけではなかったなあ。

 

かいたらかけるわけじゃないですよね。見せられる文章をかくことには努力が必要だっていわれてて、でもそうじゃない文章はある程度誰でもかけるっていう感じだと思うんですけど、実際に見せる文章でさえない、文章をかけない人はいる。文章、というか小説かな。場所設定・シチュ設定のできないひとです。推しカプが●×だったとして、彼らがまず二人でいるという前提に、なぜそこにいるんだろう、そこはどういう場所で、どうして彼らは二人なのだろう、なんていうことを考えてしまう人種。私、ずっとそれだったんですよね。キャラが二人いて、いて……?なんでそこに二人でいるのかな、どうしてかな、って思って、その理由を考えて考えて考えて、全部考え終わって、さあ!ってなる。でもそういうの、いらないですよね普通に。前提にたいしてくどくど説明付けられても、面倒くさいし。書く方も面倒くさいし。三行でわけがわからなくなる。もえじゃないもんそんなの。そんな感じで、文章ってかけなかったんです。飽きる。書く気もなかった。ずっとロム専で、絵も漫画も小説もブログもツイッターもしていなかった私は、分別のあるオトナになるまではそんなことをする気がなかった。なんかめっっちゃ保守的で倫理観がつよかったんですよね。今もわりとそのままだけど、あのころのほうがずっと、しっかりしなきゃ、みたいな気持ちがあった。でもある日ね、私はAっていう人に出会ったんだよ。

これ読んでるの私のフォロワーさんたちばっかりだろうしわかると思うんだけど、ハテナブログ鍵かからないし名前を伏せる……Aっていうひとに出会った。それでわたし、すっごくのめりこんだんですよ。愛してしまった。半生のひとなのでね、毎日毎日声をきいて、パソコンにはりついて録画をして何回も聞いて必死になってタイピングを覚えて。あのころいつだって声は聴けたのに録画してたのえらかったな私。今あのころの録音だけを繰り返して泣いてるもんなあ。

まあ、半生のひとなので、ひとがいないに等しいし読むものはない。かつ、数少ない同じ推しのひとが小説の人で、なんか、あのころ本当にもえがつよかった上に飢えてたので、ブログもサイトも始めたんですよ。ブログはかけたし。今もなんだかんだ人に萌え語りって形でしゃべったりとか、ブログってかたちでだらだらしゃべるのが一番好き。

 それで、なんか、Aのことを毎日毎日考えてるうちに、なにかを読みたくてかきたくて、私は漫画がなによりもすきだったんだけど、絵はかけなくてね。漫画もかけなくて、おはなしはひとつかけた。あの、なんで二人が一緒にいるとか必要なくね?ってなったの、なんでだったか覚えてないなあ。なんだったかなあ、最初のヤツ。死にたくなるから見返さないけど、はちみつぺろっとしてチュー♡みたいなやつかな。

 会話文多めだしすっごい短いやつだったんだけど、かけて、私がそのころいたサイトもその界隈も携帯サイトだったから、短くても十分だった。二千字あれば小説だって言えた。小説って名乗れるものをひとつかけたら、そりゃあまあ、”かいたらかけるんだな”って思えるようになって、今に至る。つまり、挫折の結果だったんだよね、私にとって。小説を書くっていうのは。

 私は何回も言ってる通り飽き性で、すべての敗因は飽き性にあるんだけど、だから漫画はかけるようにならなかったんだけど、漫画が大好きだった。から、小説がかけたのかな。物語は好きだったから。わからないなあ。

 だから当然小説をかく努力も練習もしたことがないし、だからこそ今まで続いてるんだよね。

 私の周りもそういう、日本語かけたらかけるくねって友達が多くて、ずっとそういうものかなって思ってたんだけど、努力した人の努力した記事をよんで、違うよなあって思った。日本語かけたら小説がかけるわけないよね。だって私のかくものって3000字くらいじゃん。そんなの一般に小説ではない。SSとしか言えない携帯小説文化をひきずったままのものは、ショートストーリーでしかないんだ。私の周りも大体そうで、3000字くらいのやつをかくひとたちがそういうことをいう。3000字ってさあ、すごくかきやすい。プロットもなにもいらないんだよ。シーンの思い付きと、それを表す表現さえあればいい。それっていうのはほぼ日常のキリトリで、起承転結がなくったってなりたつ。このごろ?そういうのをずっと繰り返して、長い話とかもかけるようになってるのはなってるから、だからそれは日々普通にかいてるものが練習になっているということなんだろう……か?

 

それでねえ、なんだろ、なにがいいたかったっけ。そうそう、同人は小説のほうが売れないってかいてあって、ほんまそれ~~~!!!っておもったやつ。売れないって言うか、なんかもっと普通に、短編小説ってピクシブで評価されないよな~~?ってはなし。

ピクシブ、漫画>小説かつ長編>短編なんだよね。すっごいわかりやすい。話ちょっとそれるんだけど、なんだかんだみんな、漫画の方が好きでしょ?って思う。わたしはそうだよ。何回かいってるけどわたし漫画大好きだし、漫画を読みたいから漫画を買う。毎週本屋か中古屋にいって漫画を週に二冊は最低買ってたなあ。レンタルもよくしてたから、一週間に20弱読んだりもしてたし。いまは、ピクシブあるから、ちょっと落ち着いた。同人誌買いまくるから変わんないのかもしれない……。少女漫画大好きだったんだけど、二次創作読んで三角関係への耐性がめっちゃ弱くなっちゃった。

でもさあ、漫画の方が好きだけど、自負が物書きだからやっぱり、小説とか全然読まない〜っていわれるとかなしいね。悲しい。

 

話を元に戻して、だから、短編小説はよわいってはなしだよ!よわいんだよ!コレわたしコンプレックス?なんだな!今思ったわ!

なにが弱いってさあ、ブクマ力がよわいんだよな、たぶん。長くて読み応えのある物語って、文字量で殴ってくるから読み返したい!ってなるけど、短編ってよくても、はーよかった、で終わることが、多いよう、な?気がする。長編はそのへんがつよいから、ブクマとかランキングとか、あのシステムにあってるかんじ。けど、シリーズで長いのは読む人が途中で離れるから、長くても3本くらいにまとめたほうがいい感じ。間あけても人がはなれるし。だから、それなりに長さのある前後編とかを1ヶ月以内くらいにあげたり、一本長いやつをそれなりの頻度であげられるひとはつよい。サイトとかだとやっぱりどんだけ短くても頻繁にあげまくるほうが観覧数上がるしサーチとかのランキングもあがるとおもう。

で、だからそもそも、強いところが違うんだよね。短いものはさっくり読めるし、長いほうがしかけを組み込みやすい。いろんな伏線を回収したり、紆余曲折を経た片思いが実ったりって言うのは、やっぱり書く側の労力に見合った快感があるんだよなあ。あと、満足感・多幸感を生み出すときも、ある程度の圧倒的な幸福感がなければならないから、文字数で殴るのは正しい。片思いとかすれ違いの後のハピエンのすごいやつとか頭ふわふわするもん。読んだ後に多幸感があるもの、かいていきたい。

 

この、いろんな仕掛けとかを仕込んだり、紆余曲折を飽きられないちょうどいい程度でかいたり、長いものを読ませる中で冒頭で話に引きずり込んだりっていうのには、技法があるし、こういうのは練習するほどうまくなる。のではないかと私は思う。私本当に勉強したことないけど、一定のメソッドがありそうだし。物語って考えて作り出すもんなんだから、手癖で書くより試行錯誤して考えた方が研ぎ澄まされる、んかな。

 

ていうわけでね、小説を書く上で、やはり努力をしていくべきなのだろうか、と思ったって言う話です。長編を書くとき、ていうかぶっちゃけ本を書くときもうちょっと丹念にするべきなのか?っておもってだらだら書いてたけど、やはりいるな。文章かきはじめて、本をだしはじめてちょっとたって、何事も量って必要だと思った。次も自分の小説のかきかたとかの記事にしようかな~~~~~~。

 

 

あ、努力必要だっていったけど別になにか始める気はない!努力始めたらくじけるから!そういう観点をこれからの人生でもとう、というだけ!あと同人女になって文字かきとしての自覚?生まれてきたから向き合おっかなって!少しずつ成長していきたいよな!この記事書いてる間に年あけたよ本年もだらだらよろしくお願いします~~~~~~!!!!!